地御前神社を支える周囲の事柄

   

 管弦祭前の行事・お洲掘り 旧暦8月15日

 地御前神社前の海、明神ヶ浜の御池で管弦祭の御座船を迎えるための行事で、内宮の厳島神社は大鳥居の間を御座船が無事に通れるようにともっと大掛かりにするのですが、こちらもかつての地御前村・宮内村・平良村・佐方村の各村が奉仕していました。当日は引き潮に合わせて澪木の内側の洲を掘って御座船が沖から接岸し易いようにします。管弦祭当日は高さ10mの澪木が両側に建てられ、厳島神社の御社紋(剣花菱三亀甲)の印が入った大提灯を両側に吊るしていました。昭和20年代までは牛馬が出て大勢の人が出て賑やかにやっていましたが現在は見られません。澪木建ては現在では地御前漁港の人たちがされています。

 有府水門と外宮橋

地御前神社の西側に擬宝珠を付けた赤い橋があります。海側に「有府川」、山側に「外宮橋」とあり、その橋の山側は膨れて小さな船なら係船出来そうな水面があります。ここは昔、有府水門、有府の港とも言われていました。上流側に海水を堰き止める水門があったそうです。ここはまだ地御前神社の海側がすぐ海で今のように広電や国道が無かった時代に、管弦祭で海が荒れた時に御座船を一時避難・係留する、或いは神輿を乗せるとかに利用されました。川を有府川と言いこの橋が架けられたのは明治13年(1880)に往還道(旧国道)が出来た時に造られました。その後大正5年(1926)に広電が走り、昭和7年(1932)に国道2号線が海側に通り、港として利用出来なくなってしまいました。

有府川の水は海が干潮で浜が遠浅で洲が沖まで広がった時は明瞭に流れている水筋が分ります。

  旧 有府の水門。当時はもっと広くて船が係留されていました。 今は外海とは繋がっていますが船は通れません

 

地御前神社の浜、明神ヶ浜

厳島図絵を見ると当時の浜の絵図がありその様子がよくわかります。宮島が内宮(厳島神社)を中心に美観を保っているように、地御前の浜は外宮(地御前神社)を中心に、景観を保っていたのです。

これで見ると拝殿は石垣の上に乗り、直ぐに海と接しいます。その百閒ほど沖に大鳥居と同じ両部形式の鳥居があります。拝殿にそった道には海岸には美しい磯松が植えてあり、美しい景色が続いています。

地御前神社の海岸明神ヶ浜、左が牡蠣の養殖をしている作業場正面は安芸の小富士似島

 現在は拝殿の海側には国道と広電の電車が走り境内に石の鳥居があり直ぐ拝殿に接して往還道が通い時々車も通っています。海岸に出ると瀬戸内海が一望できます。左に安芸の小富士の似島、倉橋島か広がります。目の前の浜は明神ヶ浜で管弦祭の時は御座船が接岸します。以前は夏になると地御前海水浴場になっていました。遠浅で砂浜も奇麗な海水浴場で、シーズン前には小学校の高学年生徒が砂浜を掃除して海水浴の準備をしていました。広島電鉄の臨時停留所も出来て、広島市内や山間部から大勢の海水浴客で賑わいました。学校の夏休みに臨海学校も開かれ、小学校や地御前神社が宿泊場所にもなりました。又地御前海岸は干潮時には貝掘りも出来て大勢の人で埋まりました。

 左に目をやると『宮島おもてなしホステル』と書いた横断幕が張ってある4階建てのビルが見えます。此処は以前在る通信関係の会社の研修所兼寮だった建物でしたが、今ではこれは気軽に誰でも泊まれる最近はやりのゲストハウスです。団体もよく利用しています。廿日市発祥のけん玉大会の際は多くの国から外人さんも参加しますが、その時もここは外人さんであふれています。

地御前神社から近い地御前港

奥のエリアには遊漁船が停泊している
外海側に近い場所に牡蠣業の船が入る

 地御前港は今では以前はずっと陸地側に入り組んでおり明治27年(1894)頃まで50石〜150石積みの商船が20隻程度係留され、廿日市港の廻船数を上回り、渡廻船や番線は宮島や能美島を結んでいました。文化13年(1816)には近くに「浅野藩年貢米蔵」があって頻繁に大阪通いの商船が出入りしていたそうです。地御前村は海岸沿線の平地が少なく、鉄道や道路での拡張に伴い浜周辺の埋め立て造築が進められました。造成後新開地を宅地として売り出す計画で、石垣積みの波止場が出来、入江には雁木・焚場(たでば、木造船の底を焙って底に着いた船虫、フジツボ、海藻を取り除く作業をする場所)を設け港として十分な役割を果たしていました。現在は奥のエリアにプレジャーボート、小型の漁船が係留してあり、出口に近い方は牡蠣養殖に従事する船の作業場となっています。江戸時代に造られた石を積んだ防波堤は柔らかなカーブを描いています。海水が引き潮の時地御前港の傍を歩いていると大きな魚の魚影をよく見ます。広島ではチヌと呼んでいますがクロダイが良く見えます。春が過ぎて水がぬるむころには特に浅い所にも浮きあがってきます。

地御前の牡蠣はブランド品 

 地御前の「地御前牡蠣」は全国的にも有名です。身が大きく鍋でも焼いても縮まらず美味しいとの評判です。養殖の歴史は古く100年以上の歴史があるそうです。地域における牡蠣の養殖は、文久元年(1861)頃、廿日市の山代政次、三輪弥助に始まったと言われています。養殖は太田川の河口域に発達した平潟と河川水がもたらす栄養塩(プランクトン)によって成り立つ。牡蠣の養殖は昔は、「地播き」「牡蠣ヒビ」「杭打ち式吊り下げ」方式が一般的で、昭和9年に吉岡力男、梶上利夫ら20名の青年会(漁業青年団)を結成し、新しく「やぐら式の垂下式」養殖法に取り組んだことから大きな発展をしました。

種牡蠣の採苗と抑制作業を行っている

 牡蠣養殖は種付けから始まり、ホタテ貝の殻を種付け場に吊るして待ち、再度種牡蠣を通し換えて筏に吊るし換えるます。その後2,3年大きくなるのを待って漸く売れるのです。衛生面に気を付け、海に赤潮などの異常が発生すればその海から筏を移動させるような事もあります。

そうした苦労が報われ、昭和52年代16回農業祭に参加して水産部門で地御前漁業協同組合青年部が天皇杯を受賞したそうです。

 牡蠣の養殖作業は牡蠣筏を長い孟宗竹を持ってきて組む、ホタテ貝に幼生を付着させる採苗作業、そ

れを浅瀬で育てる抑制作業、次に長い針金に付け替え筏に付ける(本垂下)、それを船で曳いて養殖海面

に浮かべて育てる。収穫できる大きさになると船で曳いてきてクレーンで一気に上げて収穫作業になり

ます。一年中作業は続いています。港を歩くとどんな作業か見ることができます。最近は外国の実習生

が働いているのをよく見ることがあります。

今では瀬戸内の広島牡蠣は他地区より牡蠣殻厚は薄く、身は大きく焼牡蠣に適しているので牡蠣ステーションが増えています。20軒ほどの牡蠣養殖の業者は何処でも販売窓口持っており、街のスーパーよりもお得な値段で小売りをしています。新鮮で粒の大きな牡蠣を買ってみて下さい。

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