歴史に彩られた地御前神社に纏わる伝統の事々

 釈迦堂と釈迦如来坐像 国宝級ではないか?

 地御前神社から踏切を渡ってすぐ大歳神社の前に小さなお堂が立っていますがこれが釈迦堂です。中を覗くと堂内一杯の大きな仏像が居られます。この仏像が釈迦如来坐像で像高290センチ、丈六(一丈六尺)の座像です。広島県内では他に見られない大きさです。広島市安佐北区の明光寺にある薬師如来は座高270センチありますが、それよりも大きなものです。廿日市の歴史探訪では、造りも寄木の組み合わせの仏像で室町中期の作で地御前神社付設の寺院の本尊で神宮寺のものではないのかと推定され、その後寺院の廃寺に伴い釈迦堂に移設されたものとされています。

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 一方この仏像は県下最大丈六の釈迦像で、造りも洗練された平安時代の定朝様とみなされている仏像が外宮地御前神社付属の寺院にあったと推測するのも不自然な所もあります。

現在の釈迦堂

 それとは別に、此の釈迦如来は宮島の大仏原にあった大御堂(大阿弥陀堂)にあった仏像で、明治の神仏分離の際に地御前に移動させられたのではないかとする考察があります。2冊の本の内『宮島の探勝』では、「宝珠院飛地仏堂で—–本尊四尺有余の釈迦如来坐像—」との記述があります。また、もう1冊には、県下に一つしかない丈六の仏像が宮島にあり、明治の時代に神仏分離の嵐が吹き荒れ、この時の宮島に関する『伸仏分離資料』には「神仏分離後—本尊の釈迦は何処かへやられ、脇士二つのみ残された」との記述があります。このようにして明治の神仏分離と言う明治政府の政策に従い丈六の釈迦如来は地御前の小さな釈迦堂に移転したのではないかとの推察です。

 地御前にある釈迦堂の大きな丈六の大仏、室町中期の作で寄木造りの大作です。仏像が大きいので胸部中央と肩、膝・胴にも寄木がしてあり眼は木目作りで半眼に閉じた慈悲深い相で、耳朶は長く下部は外にかえしてあります。首は三道を表して首を差し込む方式です。法衣は通肩という着方、法衣の彫刻は深く流麗です。

この姿形から定朝様と言われ、これほどの仏像をこの時代に造るのは時の権力者・平清盛しか居ないのではないでしょうか。今は狭いお堂の中で静かに座っている如来が、今後仏像の詳しい出自が解明されれば国の重要文化材になるのは勿論、国宝にもなるかもです。 

(参照図書;随筆古文書紀行・まぼろしの厳島大仏)

    大歳神社の前面は三段に築かれている流鏑馬の時に観覧席になった

大歳神社

 神社の直ぐ近く、流鏑馬神事を行った大歳神社は地元地御前の氏神様で少し高台に鎮座され、詳細は不明だが、現在地の前は奥深い平原に祀られていました。地御前地区は火災も多く地区を守るには近くに来ていただこうと寛政元年(1789)に今の地に勧請されました。神社の祭神名は大国魂命(おおくにたまのみこと)で、福伸で厄除け厄払いの神として祀られたそうです。現在の社殿は石段を上った高台にあり段差3段に築かれているのは(元は4段あった)流鏑馬(馬飛ばし)の観覧席だったそうです。境内には桜の木が植えられて花見の季節には見事に咲き憩いの場になっています。

秋祭りには青年会が神輿を担いで年一回の御神幸が行われています。現在は今市稲荷神社で御神幸御旅所祭が執行されています。秋祭りの前日(ヨゴロと言われています)二敗祓い行事として御獅子が町内を回っています。秋祭りは10月の第2土・日に行われているようです。

地御前の街並み 明治になって造られた地御前神社から御手洗橋まで昔の新国道(往還道)を歩いてみましょう

江戸時代の西国街道は海岸線を通らず内陸に造られ、宮内村と大野村境の四郎峠、大野村の四十八坂、玖波村の馬だめし、大竹村の苦ノ坂峠などの難所が多く何かと不便でした。明治になり新しく往還道(新国道)が造られることになり、工事は明治7年(1874)に広島元安橋から廿日市、明治10年(1877)に廿日市から地御前まで、明治13年(1880)地御前から大竹栄橋まで完成しました。。

地御前の街並みは昔の家並みが残っています。地御前神社の境内から踏切を渡ると北に続いています。道路の向うに見える山は宮島弥山→厳島神社→地御前神社→から真北にある極楽寺山です。晴れた夜間だとその上に北極星が輝いています。

盃状穴石

地御前小学校校庭の西端大歳神社寄りの角の石垣に拳大の穴が開いています。盃状穴石といいます。日本でも古くから石に対する信仰がありました。盃状石は縄文時代から作られ、元々は盤座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされています。古墳時代までの古墳にある石棺蓋石からも発見されています。大体3〜10cmの穴で盃状です。

この石から直ぐの小学校正門の横には大きな銀杏の木があります。市内最大で廿日市市の天然記念物になっています(最近は上に伸び過ぎて電線に届くので上部が伐採され見苦しい状態になっています)。イチョウは蘇鉄と同じ原始的な裸子植物で動く精子を持っており、中国原産の落葉樹の高木です。雌・雄異株で春に開花し、雄花から飛んだ穂状の花粉は二股に分かれ雌花に到達するが、受精は10月で種子が成熟する直前に行われ、この時に精子が形成されます。種子は熟すと黄色になり臭気がする一見果実のようですが、植物学では種です。

校庭の東端には小林千古生誕のモニュメントがあります。この地に明治3年に生誕し明治24年に21歳でカリフォルニア大学に入学して画業を学び、明治30年代にアメリカ、更にヨーロッパにおいて黒田清輝・岡田三郎助に知己を得て帰国して日本画壇にデビューする。明治37年34才の時病のためヨーロッパから帰国後明治44年に41才で病没する。

地御前の町屋風の建築物が少なくなってきました。

 厨子二階がある佐伯

地御前小学校を過ぎて直ぐに左に見える町屋建築は村上邸です。二階は白い漆喰が輝く厨子二階(つしにかい)の体裁となっています。これは中二階とも言われ天井の低い二階を持つ様式です。江戸時代は本格的な二階建ては町人が武士を見下すとされ、禁じられたことから普及したそうです。軒裏や垂木の柱及び窓の格子など外部に露出する木部を漆喰で塗り込んであります。軒下に設けてある裾壁・出格子・虫籠(むしこ)窓は、地御前ではこの先の佐伯邸にも見られます。二階部分の壁格子を壁土と漆喰で塗り込めて古い町屋風をとどめています。町屋の一部には二階部分の窓に木の格子の格子をはめ込んだ格子窓もあります。袖壁は町屋では設けてあり軒下の両妻に吐出したものを言います。卯建とは目的が違います。犬走りの部分に駒寄の木柵を設けて軒下の空間を通りから区切るために設けてあります。其処を過ぎて間もなく町屋が左右相対しているのが目に入ります。先ほど見た村上邸とは違って一階は格子が張ってありますが、二階はガラスの窓が入っており壁部分は漆喰が塗られています。後になってリホームされたのでしょう。尚も通りを進むと古い町屋を崩して今様の箱型の新しい建屋が並び、駐車場になっている空間もあります。

 西向寺

左に曲がると西向寺の鐘楼門が見えます。此のお寺は浄土真宗本願寺派。僧玄正が寛永2年(1625)開基。現在の本堂は明治15年(1882)に平良村の水口貞助棟梁により上棟されました。

西向寺の鐘楼門

鐘楼門から入ると左側に「菩提塔」があります。明治以来の戦争による戦死者・戦没者追悼のために建立されました。特に海外移民の辛苦と原爆の惨禍を決して忘れない決意を後世に伝えるためのものです。原爆死者の月命日には「菩提講法要」は毎月6日に8時からお勤めされています。

境内を覆う松は天井松、樹齢260〜340年、晴れの日は木陰を作り地面に本堂の格天井のような影を落とし、雪が降っても枝に積もり本堂まで雪を踏むことが無い所から天蓋松ともいう。山門横にそびえ立つ銀杏は松より古く秋の紅葉は景観に溶け込み実に鮮やかです。水脈に恵まれ昭和初期まで井戸が三か所あり勝田酒場は此処の井戸水で仕込みに使われていました。

観音堂と町屋

西向寺の直ぐ斜め前に観音堂があります。観音堂は開基はは定かではありませんが、平安時代の地御前神社絵図にも描かれており、梵鐘には、智秀山観音堂と記されています。

 本尊は、十一面観音像で室町時代後期の作で約470〜480年前と言われています。観音堂は広島新四国八十八個所の5番札所で地元八十八か所の開基として弘法大師により開山されたとの伝説から高僧との関係の深いものがあり、遠方からの参拝者もあるとのことです。

明治時代初期までは、観音山の周りは海で港がここまであり、漁船の船着き場所になっていました。

本堂が小高い所に建っていましたが樹木が家屋や道路に張り出して危険なため、昭和56年に小山を

削り平地にして現在の地に安置されたそうです。 

縁日は3月1日正月と、8月9日の四万八千日(熊野大社境内の幸神社の祭り)があるそうです。

そのすぐ先に東西の径と交差する通りに出る処に先ほどの町屋建築の佐伯邸が見えます。二階部分は同じように厨子二階で漆喰が塗られています。一階は柱のある漆喰の壁と格子になっています。この母屋の隣には漆喰に塗られた土蔵が住居にリニューアルされています。

           岡野醤油醸造場

醤油醸造場の正面の町屋風民家

通りを真っ直ぐ進むと藤本仕出し店の先に「岡野醤油醸造場」の看板を出した平屋の格子を張った古い建物があります。店には普段人は居ません、この裏には醤油醸造所があり伝統の味で頑張っているそうです。

この店の先は左には市民センターがあり、花壇に「右広島」の石標が立っています。この石標はこの往還道を造った際明治9年に建てられたものです。右側にある駐車場に古い家屋(床屋)が建っていて、その角にあったのですが、家を解体する時に移動させたものです。

二つ山と一里標・神武天皇お立ち寄りの御手洗川と御衣尾山

 そこから右折して鍵型に正面の道を左折すると東への街道になります。この通りは昭和半ば頃まではかなり色々な店が並び賑やかだったのですが今は一軒も店は開いていません。これまで歩いてきた所で見たような町屋は一軒も残っていません。左側に一段と高い石垣の上に門を構えて白壁の塀を巡らした一軒以外は昔の佇まいを残した家屋はこの通りには無くなっています。次の南北に通る道と交差して進むと左の小高い山が二つ山といいますが、以前は此処まで海がきていました。歩いている道が以前は海岸線だったのです。往還道が通る迄はこの二つ山の岩が固く海岸線に道を通すことが出来ず、この二つ山の峠「賽の峠」を通って行き来していたそうです。固い岩がある所に建てた寺を金剛寺と唱えたので廃寺となった後も金剛寺が地名となったとも言われています。其処から暫く歩くと道の左に「壱理標」と彫った石標があります。この1理標は広島市の元安川を起点に建てられたものです。お好み焼き「福の神」の前です。其処から約100‘m歩くと御手洗川に架かる御手洗橋に着きます。

此処までが宮島往還です。此処からは西国街道となります。JRの宮内串戸駅は直ぐです。「御手洗」の謂れは、神武天皇が東征の時この地に立ちより衣を山の木に掛けて手を洗われたので、この名がついたと言われているとか。又、この山の名前を御衣尾山(みそのおやま)と呼んでいるので、上流側橋の袂に、「御衣尾山・廣田神社御旅所跡」と書かれた石柱があります。

 御手洗川の土手を西に辿る道は昔の西国街道で、1.5km西の専念寺の前には1里塚跡の碑が在ります。

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