智秀山観音堂
智秀山観音堂は開基はは定かではないが、平安時代の地御前神社絵図にも描かれており、梵鐘には、智秀山観音堂と記されています。
本尊は、十一面観音像で室町時代後期の作で約470〜480年前と言われています。観音堂は広島新四国八十八個所の5番札所で地元八十八か所の開基として弘法大師により開山されたとの伝説から高僧との関係の深いものがあり、最近では遠方からの参拝者もあるとのことです。
智秀とは、観音山の奥側の山が血臭山と言われたことから、血を見る争いは避けるため智秀と改められました。伝承によると、宮島には産屋(お産婆)が無く観音堂の周りに産屋が集まるようになったとか。
本堂は小高い所に建っていたが樹木が家屋の上や道路側に張り出し危険なため、昭和56年に小山を削り平地にして現在の地に安置されました。戦時中には小山の下に防空壕がありました。
明治時代初期までは、観音山の周りは海で、港がここまであり、漁船の船着き場所になっていました。
縁日は3月1日正月と、8月9日の四万八千日(熊野大社境内の幸神社の祭り)があるそうです。
今市稲荷神社
赤い鳥居が目立つ今市稲荷神社は今市新開に建立されています。五穀豊穣と商売繁盛の神様です。
開基は定かではありませんが国郡誌差出帳には安永2年(1773)十代徳川将軍徳川家治公の時代と言われています。京都の伏見稲荷大社を分祀しました。社殿は明治25年(1892)、昭和25年に改築されています。秋祭りの大歳神社の御神幸御旅所祭が行われています。昭和25年までは二つ山の急な階段を重たい神輿を担いで上がり難儀をしていました。今市の地名は、寛永元年(1624)から馬の市が開かれ、馬市が転訛して今市が地名となったそうです。今市稲荷神社の祭日は3月初午の日に近い土曜日か日曜日に行なわれているそうです。
今市神社下の樋門の石は、今市川の樋門と言われていますが定かではないそうです。製作は、16世紀頃の西洋工法で作られた南蛮樋(スペイン・ポルトガル風)だそうです。
神宮寺毘沙門堂
神宮寺は、神仏習合の時代に建立されたために神宮寺とつけられました。開基・建立は定かではありませんが、国郡誌差出帳には「往古神宮寺と申す寺之にある由」との記述があります。神宮寺は文禄3年(1594)に廃寺になっており毘沙門堂が残っています。祀ってあるのは毘沙門天立像で普通と異なるのは、左手に宝塔を握り、右手に宝棒(鉾)を握り冠型の帽子をかむり、着流しの法衣を着て鎧をまとい、台座に立つ兜跋(とばつ)毘沙門天です。(兜跋国に現れて玄宗皇帝を助けた佛を模した毘沙門天)仏像は高さ112cmの一本木彫り作りで平安後期から鎌倉時代初期の作で昭和50年に廿日市市の重要文化財に指定されています。毘沙門天は仏法を守る守護神の一人で四天王の多聞天と同じで、独尊出で福徳・富貴の天王として信仰されています。
毘沙門堂の縁日は、旧暦3月15日。最近はそれに近い土曜日か日曜日に行われています。
八面神社
八面神社は、江戸時代に八面谷の中腹 標高20m、東側の岩盤上に造営されていました。北の山裾には湧き水の池をかかえ、東の山裾は地御前の地質としては珍しい粗花崗岩があったようです。祭神は古来水神として八岐大蛇が祀られていました。しかし昭和21年6月、神社規届出の折り素戔嗚尊に改められました。素戔嗚尊は農業用水の神様で、速谷神社や厳島神社が鎮座する以前の出雲政権時代の伝統を有する古社ということです。
神話に寄れば極楽寺山にある大蛇の池に棲んでる大蛇が人畜に加害するので、素戔嗚尊が大蛇を追い出し八つ裂きにして切り殺しました。その時大蛇の頭が空中を飛んで八面谷の南の大沼に落ちてきたので、此処に祀って社を建てたのが八面神社との伝承です。八つの切端は、赤名峠・布野村・吉田郡山・上根峠・可部祇園・安佐伴・五日市石内・地御前の地に飛んだと言われています。
鹿の子地蔵
地御前小学校の西に鹿の子山があり其の麓に神賀の里の祠、鹿の子地蔵が建立されています。地蔵堂は、宝永7年(1710)に建立されています。本尊は古木像が数体立っています。木彫りの地蔵は珍しく作者は不明ですが様々の表情の地蔵菩薩です。これは子供を失った母や水子をいとしんだ女人が奉納したものと思われます。仏像調査では十王仏であることが分ったようです。廿日市町資料編に「本尊は地蔵菩薩にして真言宗、神賀にありて境内五坪」とあります。縁日は8月24日。境内にある石灯篭は文政3年(1820)に奉納されたものです。平成22年2月に鹿の子地蔵案内板が設置されています。
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