後編 木曽路のハイライト妻籠宿から馬籠宿を歩く

南木曽駅の駐車場に車を置いて8時40分に歩き始めた。線路に跨る陸橋を渡って和合の集落を歩くと、道はトンネルのすぐ上を越え錆びの出たD51のある公園に出た。腕木式信号も建植されているが今は訪れる人もいないようだ。少し急な坂を越えると神戸(こうど)と云う各家の庭木が美しい集落を過ぎ、上久保の一里塚の案内板があり築山の上に一里塚が載っている。蛇石とか良寛の歌碑、今は閉鎖している茶屋がある里山の小路といった風情の街道をのんびり歩く。右・妻籠城と左・飯田との別れに道標があり妻籠へは少し急な坂道を直進する。これより妻籠宿の案内板が出る頃からようやく民家も多くなってくるがどれも昔の佇まいだ。橋を渡ると高札場があるが、復元された高札の文字は現代文字で書いてある。水車の横では小学生が図画の野外写生で絵を描いている。

妻籠宿の高札
妻籠宿の本陣阿
上久保の一里塚

   

10月4日(木)中山道は三留野宿を過ぎ南木曽駅辺りから木曽川沿いを離れ山中に入る。その街道は明治以降に開かれた新たな本線筋から取り残され、昔の街道の面影を残しているだけに期待していた。

(良寛の歌碑 この暮れの もの悲しさに若草の 妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも)

妻籠宿

 人家はまばら、山道らしく坂を登り川に下り、卯建のある重厚な旅籠が残る大妻籠を過ぎ、車道を横切ると石畳の続く林の中の山道になった。庚申塚、石の道標、誰かを祀った小さな祠、名所男滝・女滝を過ぎて急坂を登ると閉鎖された茶屋のある車道に出て、また林の中に入る。立派な杉の大木があり説明板が立っている。天狗の腰掛になるという神居木(かもいぎ)の説明だ。ここから傾斜は緩くなりすぐに白木番所跡に着くが、この番所は伐採禁止の木曽五木を取り締まる番所だったそうだ。木曽五木の伐採違反者は死罪と云う厳しい取り締まりで江戸時代の木曽の庶民は苦しんだらしい。すぐ近くの江戸時代そのままの立場茶屋で少し休み、30分ほど歩いて車道に出てようやく標高801mの馬籠峠に着いた。閉鎖した茶屋、子規の句碑「白雲や青葉・若葉の三十里」がある。南木曽駅からここまで約10km。

 馬籠宿

ここからは馬籠宿のエリアになる。雰囲気もがらりと変わり、広々とした美濃平野が眼下に広がり狭くて暗かった木曽谷から明るい平野を見下ろしながら歩く。車道から細い坂道に入ると、軒の低い小さな平屋が並ぶ峠の集落がある。その外れに「夜明け前」にも登場する牛曳きの頭目を讃えた「峠の御頭の碑」が立っていた。御頭が中津川宿の問屋と争って牛曳き賃の値上げを勝ち取った時の顕彰碑だ。この集落はこの牛曳きの子孫だろうか。十辺舎一九の句碑「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこわめしここが名物」が桜の木の下に建っていた。かなり急な坂を下っていくと馬籠宿の高札場に出る。ここは夏に恵那山を仰ぎ、美濃平野を眺めた所、ここから始まる馬籠宿は坂道に造られた宿場で隣家との境には石垣が築かれるほどの傾斜だ。馬籠宿の本陣の当主だった島崎正樹の四男として生まれた藤村は父をモデルにした「夜明け前」、姉の嫁いだ福島宿の高瀬家を舞台にした「家」など木曽を舞台にした名作を著し、木曽とは切っても切れない作家である。本陣跡にある藤村記念館は各種の資料が豊富だが、当時の建屋は祖父母の隠居所しか残っていない。宿場の坂を下っていくと桝形の車坂があり大きな水車が回っている。この水車は中に入ってみると発電機が設置してあり400kw程度の出力の発電所となっていた。

 南木曽駅に戻るバスまで1時間30分あったので、ここまで来たからには木曾路の南の端にある「是より北 木曾路」の碑がある新茶屋まで行くことにした。途中、子規の句碑がある公園(サンセットポイント)からは広い美濃平野が見渡せる。新茶屋は信濃・美濃の国境の石柱もありここで木曾路は終わり、ここから落合宿、中津川宿へと下り美濃を経て京都に向かっていく。

 こうして三日間の木曾路歩きは終わり、翌日から恵那山、御嶽山の登山に移った。

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