地御前神社
地御前(じごぜん)神社は広島市の隣の廿日市市にあります。世界遺産の宮島にある厳島神社と深い縁にあり、飛鳥時代593年に厳島神社とほぼ同じ時期に造営されました。当時は宮島自体がご神体で聖地の宮島には人は住めず、遙拝のために対岸に建立されたのが下宮(げぐう)の地御前神社でした。厳島神社の内宮に対して地の御前「ヂノゴゼン」と呼ばれ、地名も地御前となりました。この時代厳島神社、地御前神社の創建は佐伯鞍職(くらもと)とされており、その後平安時代に安芸の守となった平清盛によって現在の姿に造営されました。往時の厳島神社は内宮たる厳島神社と外宮たる地御前神社の2社合わせて成り立つ神社でありました。
地御前神社は裏の明神山を社叢として南の明神ヶ浜を前面に建立された堂々とした佇まいで、前面の拝殿の後ろ東側に大宮本殿、西側に客人本殿があります。社の周りには大鳥居・釈迦堂・拝殿・御旅所・鐘楼・金毘羅社・住吉社・神馬社などが造営されていました。又、その近隣には大歳神社をはじめ毘沙門堂・今市稲荷・観音堂・正行寺・西向寺など神社仏閣が点在していました。今でもそれらの多くは当時の姿を留めています。
その後地御前神社は、宝暦五年(1755)北ノ町の大火があり近隣117軒が焼失しました。その後宝暦10年(1760)になり神社が再建され、その際現在拝殿の右にある舟形手水鉢が寄進されました。安政5年(1858)にも大火があり、拝殿・お旅所・お供え所・神馬社・釈迦堂が焼失し、大正5年(1916)になって拝殿が再建されました。
地御前神社前の鳥居は、仁治元年(1240)明神ヶ浜の御池に木造の大鳥居が建立され、享和元年(1801)に建て替えられています。現在の境内にある石の鳥居は明治31年(1898)に建立されたものです。
此の鳥居の扁額名は海側「厳島外宮社」、神社側「地御前神社」となっています。
現在地御前神社の後ろはJR山陽本線が通り、前面は明治時代に造られた旧国道に挟まれており、拝殿前の広い道は管弦祭、御陵衣祭の際は神社の境内となり、出店も出て賑わいます。
宮島弥山頂上・厳島神社・地御前神社・極楽寺の位置関係 ご神体の宮島の頂上を起点として真北に内宮厳島神社があり、その延長の真北に 外宮地御前神社があり、その真北に極楽寺が位置します。その真上に北極星が見えます。 |
管弦祭 旧暦6月17日
地御前神社の最も賑やかなものは矢張り管弦祭です。日本三大船神事と言われこれは宮島の厳島神社でも最大の神事です。旧暦6月17日は,潮が高く月が満月に近くて明るく御座船が往来し易いので毎年この日に行われてきました。
平清盛が権勢を誇っていた時代に平安時代の貴族が楽しんでいた管弦の遊びを宮島に持ってきて華々しくアレンジして神事にしたものだと言われています。当初は平清盛が厳島神社を修築された頃からと言われているが、未だ宮島に人が住んでいない時代は地御前神社から船を出して長浜神社、大元神社を回り御本社厳島神社で管弦を奏でたのが始まりで、清盛公が永歴元年(1160)に初めて厳島神社に参詣して、宮島に住民が住むようになり、厳島神社から管弦の船が出るようになりました。当時の御座船は櫓が六挺の大きな船を使っていましたが、現在は3隻の舟を並べて組んで御座船を仕立て、漕ぎ舟が2隻で曳くようになっています。漕ぎ船は現在江波の漕ぎ伝馬が櫂12挺で、阿賀船は櫓6挺で曳いています。
現在の管弦祭は、午後4時から宮島厳島神社本殿で祭典の後、御鳳輦(ほうれん)を大鳥居沖の御座船に乗せます。御座船では大鳥居前の儀の後管弦を奉奏しながら江波と阿賀の2艘の伝馬船に曳かれ対岸の火建岩(跡)の沖に向かい停泊して潮時を見計らって、御座船の提灯に燈明を入れ松明を焚きます。地御前神社前の浜に御座船が入れるように満ち潮になった頃地御前神社から御迎船が来ます。
御迎船を水先に神社前に着いた後、浜辺で祭典と管弦が奉奏されます。祭典が終わると御座船は 伝馬に曳かれ三匝(さんそう、3回まわる)し、この間管弦の陪臚(ばいろ)を奏で長浜神社に向かいます。
この時が地御前神社に管弦祭を見に来た観衆はその推移を見守ることになります。
江戸時代には広島市の各町からも船を仕立て宮島まで来て管弦祭を取り囲み一晩中賑やかに遊んだのだそうです。その流れは受け継がれ昭和40年代までは、大漁旗を翻した漁船などが瀬戸内海の方々から数百隻も集まっていました。
地御前側での神事が終わると観衆は三々五々帰路につきますが、熱心な人は広電・連絡鉛を使って対岸の宮島に渡り、長浜神社まで赴きそこで手渡された提灯を振って地御前から伝馬船に曳かれた御座船を待ちます。その後観客は御座船が長浜神社での神事を終えて本殿に帰るのを追って、提灯行列で厳島神社まで歩きます。最終行事は、客人神社と回廊の間の枡形で江波の漕ぎ伝馬が狭い枡形の中で豪快に3周するクライマックスを見て漸く長かった管弦祭が終わります。終わると又連絡船に乗って戻るのです。
伝統の御陵衣祭(ごりょうえさい) 旧暦5月5日 端午の節句
地御前神社のお祭りはこれだけではありません。伝統的なお祭りの御陵衣祭が旧暦の5月5日端午の節句に執り行われます。昭和30年ころまでは、厳島神社の神馬を船に乗せて神職と共に渡ってきたそうです。その頃まだ厳島神社には白馬が厩に飼われていたのです。今は外注で白馬を連れてきています。その白馬には祭典開始前に飾り付けをして、お供の人も白張(はくちょう)を着け神職の御祓いを受けた後獅子頭に先導され地御前町内を巡行しています。
祭典は「修祓」、「献セン」とか行われその間、鉦鼓・篳篥・高麗笛などで奏楽があり、祭典終了後舞楽「蘭陵王」、「納曽利」の2曲が行われます。奏楽、舞人などは全て厳島神社から来た神主が行っています。見物客も多く拝殿は満員で、入れない人々は外に溢れています。
其処が一段落すると流鏑馬の神事が行われます。地元ではこれを「馬飛ばし」と呼んでいたそうです。地御前の流鏑馬は豊臣秀頼の時代に安芸の国藩主安芸の守が奉納馬を仕立てて参拝したのが始まりで、依頼400年以上の歴史があるとのことです。しかし昭和42年頃から時代も変わり馬や牛を飼わなくなり一時中断した時期もありましたが、地域の人々からの強い要望もあり昭和57年に復活したそうです。復活当初は弓矢は射ないがそれでも馬を走らせていましたが、現在は他県から馬共々騎手に来てもらいやっています。狩衣を纏った騎手は拝殿前で何回か空に向かって矢を射て厄払いを行った後、大歳神社の前に移動して三か所に据えられた的に向かって弓矢を射ます。それが終わると初節句の祝いに集まった赤ちゃんを騎手が一人一人馬上 に抱き上げて祝福する微笑ましい光景が祭典に彩を添えています。
このお祭りは旧暦5月5日端午の節句に行われるので集まった人たちが持ち帰られるように用意された菖蒲の束は祭りが終わるころには全部無くなっています。
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